ブログを再開しました(沖縄県にとって最大の問題についてつぶやきます)

 ブログへ訪問された皆様お久しぶりです。『あなたの町医者ちぃさん』です。このブログは2011年1月にオープンしました。私が沖縄県那覇市小禄でクリニックを開業(2010年9月7日)してまもなく、患者さんも増えずに少し暇にしていたときにMJOのメンバーでトロンボーンを担当している小鍋悠(はるか)さんから、『FM21の音楽番組でパーソナリティをしていますが、相方が辞めたため、先生2ヶ月ほど手伝ってもらえませんか?』というオファーがあり、『暇だし、しばらく息抜きに手伝ってあげようか。』とOKしたのが始まりでした。毎週月曜日の午後10時から11時まで、アマ・プロを問わず沖縄のミュージシャンをお呼びして、その方のミュージシャンになろうとしたきっかけや、成功するまでの険しいみちのりをどう乗り越えて今の地位に到達したのか、またまだ進む道途中でこれからどのように進みたいのかという自身のコンセプト等々を聞き出し、最後に近々のライブの情報を聞いてリスナーさんにお知らせするというパターンで放送をおこないました。番組を聴かれているリスナーさんへメールと1960年代から1990年代の曲をリクエストしてもらうように伝えましたら、北海道から埼玉、大阪、広島、宮崎など全国津々浦々から励ましの言葉、お褒めの言葉等々沢山のメールと共にリクエストをいただき、こんなちっぽけな沖縄県の1ローカル放送局の電波を日本全国が聞いてくれているということに感動しました。この番組でフランス公立音楽学校でピアノの指導をしていて、ピアソラのリベルタンゴなどを演奏するため来沖したプロの宮城知子さんはフランスからわざわざお礼のメールを送ってくれました。数年後に私自身が医者の不養生で倒れて、放送を続ける事ができなくなるまでに、数百人のミュージシャンと出会うことができました。

 早期発見・早期治療が郊を奏して3週間足らずで退院しましたが、それからはクリニックが忙しすぎて余裕がなくなり、最近は、第5月曜日に午後10時から10時半まで、悠さんと共にまた、FM21よりユンタクを発信しています。復帰後、現在までブログはお休みしていましたが、今回を機に少しずつアップしてゆこうと思います。どうぞ皆さん、またブログへ訪問されてください。

 2012年4月14日を最後にアップせずに止まっていた私のブログにずっとアクセスしてくださった皆様ありがとうございます。更新してないにもかかわらず、9月25日現在、トータルアクセス数が35,137回に達しています。中断していた間の出来事やハート話をこれからもアップしてゆこうと思いますが、しばらくは私の故郷沖縄県の大変重要なことをアップしたいと思います。

 7978文字、400字原稿用紙約20枚、私の沖縄県に対する思いをしたためました。少し長い文章ですが、お読み下さい。

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 まず最初に述べたいことは、一庶民・一県民・一国民・一地球人として、これだけは、全県民・全日本国民・全世界の人々にお伝えしなければいけないと思う事です。


 わたしの故郷、沖縄県(琉球)の話です。15世紀に沖縄は琉球国という王国でした。尚巴志が三山(北山・中山・南山)を統一して国を1つにし(1429年)、無益な権力闘争で殺し合う事をやめ、武器は首里城に納めさせ、その後は護身術としての空手と棒術を発展させました。空手は攻撃する武術ではなく、防御の武術(護身術)です。相手を殺したり、重症を負わせたりすることはせず、寸止めで攻撃を止めるのです。相手は素直に負けを認め、『参りました』と頭を下げるのです。勝者を恨むのでは無く、尊敬(リスペクト)するのです。そして、自分の技を磨いて再挑戦するのです。琉球の言葉に『イチャリバチョーデー出会ったあとは兄弟同然だ)』と言う言葉があります。昨日の敵は今日の友なのです。そうやって、昔の琉球の国民は相手を敬い、他人を蔑む事はせず平和な琉球国を築いていったのです。『命どぅ宝( 両親からもらった命が一番大切な宝物です)』の精神を胸に秘め、決して他人の命も自分の命も粗末にせずに大切にする平和な国家でした。武器を持たない琉球という平和な国は、日本の北海道から朝鮮・中国・フィリピン・ベトナム・カンボジア・インドネシアとアジアの広い範囲の国々とグローバルに友好的に交易をし、万国の架け橋(万国津梁)になって発展していました。
 平和で豊かな琉球国へ、槍・刀・弓矢・鉄砲という他人の命を奪う武器でもって攻めいった国がありました。日本(薩摩藩)です。薩摩軍3000人、琉球軍4000人で、そのとき、琉球軍は無駄に命を捨てるようなことはしませんでした。鉄砲に対しては、かなうはずがありませんでした。恐らく、当時から見れば未来人にあたる現代の私たちに、『せっかく平和な国を築いてきたのに、幸せな・豊かな琉球をあなたたちに残せなくてすまない。残った命をつないでいって、戦のない、平和な時が必ずくると想うので、そうなるように頑張って欲しい。「命どぅ宝どぉ(命こそ大切な宝だよ)。それを紡いで行って、平和で幸せな国をつくってくれよ。」』と願ったと思います。そうして、琉球国は1609年に薩摩藩(日本)の支配下におかれ、黒糖・うこん(薬として)・唐いも(薩摩では琉球いも、薩摩以外の藩では薩摩いもと呼ばれていました)・その他琉球の産物・加工品・他国との貿易で得た品々を搾取され、他国とは貿易しない鎖国状態であった薩摩藩は、明治維新の遂行に多大な資金を得ました。一説によると3年間に黒船1隻を購入できるほどの財力を得ていたと言われています。琉球には中国へ留学して平和を愛する哲学を学び、人間はこうあるべきだという中国の哲学書『六諭衍義りくゆえんぎ)』を自分なりにまとめた名護親方(程順則1663~1735)がいました。これは後に江戸へ赴いて薩摩藩主の島津吉貴公に献上され、さらに徳川将軍へも献上され、寺小屋の教科書として珍重されました琉球の人々は決してすすんで琉球を日本に差し出したのではありません。いつか、日本も平和で心豊かな他人を思いやる国へ発展すれば、琉球から搾取するようなことはせず、琉球の王様を帰してもとの琉球国に戻して対等な立場で交易する友好国になるだろうと、いにしえの琉球の国民は願っていたと思います。

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琉球はその後、平和国家へ戻ることはできず、日本政府に3回も処分されました。

          琉球処分(1)

明治政府により琉球が強制併合された一連の過程を琉球処分と言い、1872年(明治5年)の琉球藩設置に始まり、1879年(明治12年)の沖縄県設置に至ります。この一連の動きにより500年続いた琉球王国は500年にわたる歴史を閉じ、つまり滅亡し、沖縄県として大日本帝国に併合されました。そして沖縄県の県知事は沖縄県から選ばれるのではなく、すべて日本政府から選挙なしで赴任してきました。これが最初の琉球処分です。

             琉球処分(2)            

第二次世界大戦の時は連合軍の本土上陸・本土での地上戦を阻止するため、沖縄は捨て石にされました。そして、敵味方20万人以上の沖縄県民・日本軍兵士・アメリカ軍兵士が犠牲になりました。そして終戦を迎えた後、主要な土地が米軍基地を造るために強制摂取され、米軍基地が建設されてゆきました。そして1951年9月8日署名され、1952年4月28日に効力発生したサンフランシスコ講和条約により、沖縄県は日本から切り離され、アメリカ合衆国の信託統治領となりました。沖縄県は単に沖縄となり、日本人でもアメリカ人でもなく、国籍を持たない民族になってしまったのです。沖縄は1879年に日本に強制併合され、ウチナーユー(沖縄世)からヤマトユー日本世)になり、さらにアメリカユー(米国世)になってしまったのです。おとなしい琉球国民は時代に翻弄され続けました。

           琉球処分(3)

 昭和47年(1972年 )5月15日、沖縄県は日本復帰しました。佐藤栄作首相の時代でした。『沖縄の本土復帰なくして戦後は終わらない』という名言を残して本土復帰を実現しました。実は復帰前の1970年12月20日未明にコザ市(現在の沖縄市)で、おとなしかった沖縄の市民たちが不満を爆発させて騒動を起こしていたのです。きっかけはアメリカ軍人が沖縄市民を轢いた交通事故でしたが、背景に米施政下での圧制、人権侵害に対する市民達の不満が募っていたことでした。アメリカ軍車両のナンバープレートにはナンバーの前にYという文字がついているため、ナンバープレートをみればアメリカ軍人の車かどうか分かるため、アメリカ軍人の車だけに火をつけ、焼き討ちしたのでした。日頃から、レイプ事件・殺人事件・交通事故・ひき逃げ・タクシー代踏み倒しなど色々事件を起こしても治外法権になっているフェンスの中へ逃げ込めば罪を免れていたのです。犯人がはっきり確定できていても、彼らは軍法会議にかけられて罪をかせられるのですが、その結果がどうなったのかは沖縄の市民には知らされませんでした。つまり、地位協定で守られていたのです(現在でもそうです)。沖縄県民の堪忍袋の緒が切れた出来事でした。きっと、おとなしい沖縄の人々の怒りが爆発したのを見て、米民政府は『もうそろそろ沖縄は日本に復帰してもらわないとまずい』と思ったでしょう。
 この復帰によって沖縄は再びヤマトユー(日本世)の沖縄県になり、日本国籍を得ることができました。しかし、基地負担は決して楽になった訳ではありませんでした。米軍人の犯罪はへらず、地位協定の見直しもありませんでした。継続して米軍が使用する施設数が減ったように数字上はなっていましたが、広大な嘉手納空軍基地は継続使用する1施設コザ市の基地の周辺に事務所として借りていて立ち退くビルの一室は返還する1施設と数えていました。よく調べてみると数のごまかしが沢山ありました。そして、米兵による犯罪は決して減ることはありませんでした。本土復帰前に史上初めて投票によって選ばれた本土復帰派の琉球政府の行政主席、屋良朝苗主席(沖縄返還前であり、まだ知事ではありませんでした)は国会で沖縄本土復帰について審議されているさなか、スタッフによって不眠不休で作成した『沖縄の本土復帰措置に関する建議書』を携えて、『これから沖縄の要望を訴える建議書をもって上京しますので国会で述べさせて下さい。』と連絡し、国会へ飛行機で飛び立ちました。急な連絡を受けた佐藤栄作首相率いる自民党は、慌てふためいた状況の中、突然審議を中断し、自分達の作成した法案に地元沖縄の意見は全く考慮せずに採決に踏み切り、屋良朝苗主席が国会議事堂に到着したときは、『沖縄本土復帰法案』を強行採決した後でした。今度こそ沖縄の思いを込めた立派な法案の下、それこそ沖縄県民に寄り添った政策を実現して貰おうという思いでしたが、みごとに打ち砕かれてしまいました。 

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 琉球は人を殺し合う戦(いくさ)をやめて平和な国を500年間継続していました。その平和を壊したのは日本です。でも沖縄県民は日本という国に憎しみや恨みは持っていません。薩摩が琉球から富を得てもそれを倒幕・明治維新を成し遂げて、300年続いた封建制度を打ち壊すことに使ったのあれば、日本の近代化の早期実現に貢献したことになります。いわば、日本のために縁の下の力持ちとして貢献したのは琉球であり、沖縄だったといえるのでは無いでしょうか。その沖縄を戦後、痛めつけ、いまだに過大な負担をかけているのは誰でしょうか?口では沖縄県民に寄り添い・・・と言いつつ、実際は地面にたたきつけて足で顔を踏みつけ、『日本のために我慢しろといっているように思えてなりません。日本の舵取りをする人たちが本当に平和な国をつくる政治をしてくれれば、皆幸せになれるのです。

 普天間を県内移設するのでは無く、県外・国外へ移設すれば問題はすぐに解決するのです。鹿児島県の無人島、馬毛島を国が買い取って滑走路を造れば、あっという間にすむのです。土地の買収に難色を示していれば時価の倍でもよいのではないですか。ただ条件として近隣の種子島や屋久島の住人の居住する場所の上空は飛ばない、夜間は飛ばないという厳しい条件をつければいいのでは無いでしょうか。ドイツやイタリアはそのために地位協定を改訂させています。『それができなければ我が国から出ていって下さい』と。それに比べ、日本は一度も改訂させていません。すべてアメリカのいいなりです

 また今年1月12日、グアム島が辺野古の代わりに受け入れてくれないか、翁長雄志前知事がグアム島を訪ねて面談したとき、エディ・カルポ知事は辺野古新基地建設計画について『グアムにも美しい海がある。負担軽減とはいえ、そのように埋め立てることは私たちとしても理解しにくいと述べ、多くの県民が新基地建設に反対していることに理解を示し、在沖海兵隊のグアム移転については『スピーディに進めたい』と実現へ協力する姿勢を示しました。県によると、カルポ知事は在沖海兵隊移転について『米国民として沖縄の負担軽減に答えたい。一日も早く受け入れたい』とのべ、『現在、米政府が外国人労働者への就労ビザ発給を制限しているため、グアムで建設工事を担う外国人労働者が大幅に不足している。』カルポ知事は『同ビザ問題が在沖海兵隊移転促進の大きな障害になっている』とし、米政府にビザの早期発給を要請していることなどを説明しました。【2018年1月13日 琉球新報記事より抜粋】

もう一つの選択肢は海上浮遊型(例:関西空港)の基地を建設してそこへ移転する方法もあります。他にも方法はあるはずです。なぜ、政府はその努力を怠り、『辺野古が唯一の選択肢』と言い張り今まで以上の負担を強いるのでしょうか。今、辺野古へ新基地を造ることを許せば、あと100~200年は今よりもっと負担が重くなるでしょう。自然豊かで世界遺産に登録されようかという緑豊かで、マイナスイオンいっぱいの澄んだ空気いっぱいで、貴重な昆虫や「ヤンバルクイナ」・「ノグチゲラ」などの希少生物が暮らしている、静かで平和なやんばるにオスプレイの爆音を毎日、昼夜を問わず、鳴り響かせると言うのでしょうか。

 今年の4月に山原の国頭村与那区の役所から、『今、若者が村から外へ出て行き過疎化が進んでいるため、楽しいイベントを村あげて積極的に催し、活性化したいので山原でジャズをきかせてくれませんか。ギャラは払えませんが、村の公用マイクロバスで送迎します。昼食は村でとれた山の幸・海の幸を使ったランチを用意します。』というオファーが医者仲間とジャズが好きな人たちで構成している楽団MJO(medical jazz orchestra)にあり、ボランティアでライブを年2回行っている MJOとしては二つ返事で承諾しました。その日は、前日の天気予報では山原は雨ということでしたが、那覇から与那まで1時間半かかって着いてみたら、見渡す限り雲一つ無い青空が拡がり、空気は澄んでいて遠くの山々がすぐ目の前に迫ってくるようにくっきりと見え、まさに日本ばれでした。会場になる与那公民館で午前中にリハーサルを行い、昼食はご当地の食材を用いて造ったランチを食しました。食材が新鮮なため非常においしく、舌鼓を打ちました。午後は区民のカラオケのあと、私たちのジャズバンドの演奏でしたが、最初50人ほどだったのが、終わる頃には170人近くの人でいっぱいになりました。おそらく、静かな村中に響くバンドの楽しいリズムに誘われて皆集まってくれたと思います。最後はジャズのリズムに合わせてスイングし踊ってくれました。聴衆がスイングしてリズムに乗って踊ってくれた時、ジャズメンである私たちは本当に幸福感に浸されました。区長からは『生のジャズ演奏が聴けたのはこの山原では初めてのことで、非常に楽しませて貰いました。ありがとうございました。』とお礼の言葉をいただきました。現場にはNHK・琉球新報・沖縄タイムスの記者も来られていてこのイベントを紹介するため、NHKのテレビニュース・琉球新報・沖縄タイムスの記事にも載りました。

 辺野古に新基地ができ、オスプレイが沢山配備されれば、この山原の最大のメリットである、静けさ・新鮮な空気・人間をいやしてくれる森のマイナスイオン・鳥のさえずり等がすべて壊されてしまう。演奏後に『そんな山原にはなって欲しくない』と思いました。騒音のない、空気がおいしい現在の山原のままで、世界遺産に登録されて、全世界の人たちがここで癒やされに訪れる、そんな場所でいて欲しいと願わずにはおれませんでした。

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 今、沖縄の美しい海が埋め立てられ、ここへ将来沢山のオスプレイが駐機され、昼夜を問わず騒音をまき散らそうとしています。他の選択肢を模索せず、誰が言い出したのか「辺野古が唯一」と唱えています。しかも、主張している日本政府・国会議員の人たちは戦争を知らない、戦争の悲惨さを知ろうともしない人たちです。辺野古に新基地を造らせればそれは沖縄県にとって第4の琉球処分になるでしょう。私達の先輩は沖縄県を平和で、戦争は絶対にしない、おもてなしを重んじる守礼の邦・万国津梁の邦にしたかったはずです。また、私たちも未来の子供達にそんな素晴らしい沖縄県を残してあげようと思っています。目先の近い将来ではなく、これから生まれてくる、まだ見ぬ子供達のことを考えるべきでは無いでしょうか。そのために翁長雄志前知事はオール沖縄を立ち上げてくれたのでは無いでしょうか。いままで、沖縄県民の思いを日本が受け入れてくれた事がどれほどあったでしょうか?先回の参院選の時、辺野古の埋め立て工事を一旦停止したときは、オール沖縄と真剣に対話して、代替地を県外・国外へ替えてくれるのかと思いきや選挙が終わると対話に応じずに工事を再開されました。選挙で反対票が増えないようにとられたポーズ、すなわち戦略の一つでしか無かったのです。今まで同様に真摯に対話するポーズはとりますが、結局は沖縄の民意を全く無視して、思い通りに事を進めています。国に向き合って対等に話し合い沖縄の未来(将来ではない)、まだ見ぬ未来の人たちにすばらしい沖縄を残すためオール沖縄は今頑張っているのです。この灯を消してしまうのか、赤々とより大きく燃やしてゆくのか、この選挙は今までで最も重要な選挙なのです。道半ばで逝去された翁長雄志前知事・太田昌秀前知事の血の滲むような努力を絶やしてはいけないと思います。今回の知事選挙は今までの知事選とは違って、候補者(玉城デニー氏、佐喜真アツシ氏)同志の戦いと言うような単純なものではなく、オール沖縄対官邸(日本政府)の戦いだと思います。小沢一郎氏の別荘の問題や色々なデマや中傷などに左右されるようなレベルではありません。それらに惑わされず、しっかりと琉球・沖縄の歴史を見極めて自分の意思に添って投票して欲しいと思います。 特に18~20歳の若い人たちに琉球・沖縄の歴史をちゃんと知って、自分の子供や孫・ひ孫にどんな故郷沖縄を未来に残すべきか判断して投票するようにして欲しいと思います。台風で天気が悪くても、投票には是非いかれて、自分の意思で1票を投じて下さい
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今日は、いきなりシビアなことを長々とアップしてしまいました。若い有権者に少しでも、故郷を思う、諦めない、自分の意思を大切にしている先輩達がいることを知ってもらいたく、書きました。


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